僕は日本人にもマレーシア人にもなれないのか

日本人でありながら、4年間ほどマレーシアで生活しているなかで、自分がなにじんなのかわからなくなってしまうことがあるきがします。マレーシアでの生活はとても貴重で、多くの学びと楽しい思い出を与えてくれました。しかし、最近ふと気づいたのです。自分が「日本人」としても「マレーシア人」としても、どちらかに完全に馴染めないように感じることがあるということに。


この感覚を抱いたとき、ふと「東京グール」のあるシーンを思い出しました。それは、主人公カネキが「僕は人間にもグールにも慣れない」と語った場面です。この言葉に、自分自身の気持ちを重ねることができたのです。そして、その後の店主・芳村の言葉が、自分の中で大きな気づきを与えてくれました。


「東京グール」は、普通の人間だったカネキケンが、ある事件をきっかけに人を食べなければ生きられない「グール」になってしまう物語です。その中で、カネキは人間としての過去と、グールとしての現実の間で葛藤し続けます。


特に印象的だったのは、カネキが「あんていく」の店主・芳村に自分の気持ちを打ち明ける場面です。カネキはこう言います:

「僕は人間にもグールにも慣れない」

それに対して、芳村はこう答えました:

「君はそのどちらにもなれる」


このやり取りは、カネキが抱えるアイデンティティの葛藤と、それを超えて新しい自分を見つける可能性を象徴しています。このセリフが、自分自身の状況と重なり、大きな共感を覚えたのです。


私が「日本人にもマレーシア人にも慣れない」と感じる理由は、異なる文化に属しながら生活したことにあると思います。


日本に戻ると、自分の考え方や行動がどこか「マレーシア的」だと感じる瞬間があります。例えば、多文化的な視点で物事を捉えたり、人との距離感が少しフレンドリーすぎると感じられたりすることがあります。


一方で、マレーシアに住んでいるときも、自分が完全に「マレーシア人」として馴染んでいたわけではありませんでした。日本の習慣や価値観が根付いているため、時折「自分は外から見ている存在だな」と感じることもありました。


このように、自分はどちらの文化にも完全には属していないという感覚がありました。しかし、それは逆に言えば、どちらの文化にも触れることができる自分であるとも言えるのです。


カネキが「人間でもグールでもない」と感じたのは、自分のアイデンティティがはっきりしないことへの恐れや不安からでした。しかし、芳村の言葉が示す通り、彼はその両方を受け入れることで新しい自分を見つけることができる可能性を持っていました。


私も同じように考え始めています。「日本人かマレーシア人か」という二択に囚われるのではなく、「どちらも持っている自分」を受け入れる。それが、私が感じている違和感を乗り越える鍵なのではないかと。


この記事を読んでいる皆さんも、自分のアイデンティティや居場所について悩んだことがあるかもしれません。大切なのは、自分が何者であるかを無理に定義しようとすることではなく、自分の中にある多様な側面を受け入れることです。


私たちは「どちらか」ではなく「どちらも」になることができます。それを認めたとき、きっと新しい可能性が見えてくるはずです。


東京グールの言葉を借りれば、

「僕たちは、そのどちらにもなれる」

ということです。



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